狩野 雄

狩野 雄 教授
かのう ゆう

現在までのところ、わたしたちは言葉を用いることでしか自分の思いを述べることができません。それは、どんな言葉を持っているかによって世界の見え方そのものも違ってくることを意味します。
 言葉というものは、よく知っている(はずの)身近なものでありながら、あらためて考えてみると、決して扱いやすいものではありません。そして、実に愛おしいものです。そんな言葉の向こう側に行ってみたいと思いもするのですが、どうもそれは、言葉ときちんと向き合うことでしかなし得ないことのようです。ぼくの場合は、漢字や中国古典詩文を通して言葉と向き合うことになります。これがなかなか難しいのですが、とても楽しいのです。
 中国古典のなかに見える匂い・香りの表現を追いかけてきました。匂い・香りを通して少しでも作品の内側に湛えられている何かに触れたいと考えたからです。みなさんも知性と感性を精一杯澄ませて目に見えない何かを探してみませんか。言葉の向こう側の世界の一端が感じられるかも知れません。文学はこんなことを考えさせてくれます。
 日々の授業やゼミでのやりとりを通して、一緒に文学を楽しみたいと思っています。

狩野ゼミブログ

連絡先kano_yu★mukogawa-u.ac.jp
(注)★を@に変えてお送りください。
担当教科漢文入門、漢文学講読Ⅰ、漢文学講読Ⅱ、演習Ⅰ、演習Ⅱ、卒業論文など
専門領域中国古典文学(漢文学)
所属学会日本中国学会、東方学会、六朝学術学会、三国志学会、中国文史哲研究会など
経歴東北大学文学部卒業
東北大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学
東北大学大学院文学研究科助手
相模女子大学学芸学部日本語日本文学科
武庫川女子大学文学部日本語日本文学科
主な業績

【著書】
・『香りの詩学―三国西晋詩の芳香表現』(単著 知泉書館、2021年)
・『杜甫全詩訳注(二)』(共著 講談社、2016年)
・『『隋書』音楽志訳注』(共著 和泉書院、2016年)

【論文】
・「香る荀令君――詩文のなかの荀彧像」(三国志研究第17号、2022年)
・「芳る祖国――陸機「悲哉行」の芳香表現をめぐって」(東北大学中国語学文学論集第23号、2018年)
・「時を超える匂い――孫呉の感覚世界について」(三国志研究第13号、2018年)
・「谷と蘭――陸機「贈潘尼詩」をめぐって」(日本中国学会2017年度研究集録「中国古典における精読の探求」、2017年)
・「芳りと響き――二陸の詩歌作品に見える感覚表現」(東方学第129輯、2015年)
・「謎の蘇合香――二つの異聞のはざまで」(未名第31号、2013年)

担当する授業の内容・魅力

日文の授業には「漢文入門」「漢文学講読Ⅰ」「漢文学講読Ⅱ」などの漢文科目があります。
 漢文といえば、まず返り点がイメージされるでしょうか。たしかに日本語の文法と漢文の語法とは同じではありません。語順が異なるので、漢文を日本文にして読もうとすると、順番を改める必要が出てきます。この語順の異なりと、漢字ばかりであることがまず難しく感じさせるのでしょう。
 ただ、ここで使われている、本来外国の文字であるはずの漢字は、われわれの日常言語である日本語に用いられているもので、使用頻度の高さで言えば、こんなに近いものもありません。つまり、漢字そのものも、漢字によって表現された作品である中国古典も、日本語や日本文学からすると、ずいぶん近い存在ということになります。漢字のことを「不可避の他者」と呼ぶ人がいますが、他言語からもたらされた文字を自らに取り込んで使っているという意味では、間違いなく、避けられない=不可避の、そして最も近い他者です。
 この最も近い他者を通して、あるいは、最も近い他者に映して自分たちの言葉を見つめ直すと何が見えてくるのか、こんなことも学生諸君と考えてみたいと思っていることです。
内容についてもそうです。教訓的な内容が多くて説教くさく感じられてしまうこともあるかもしれませんが、こんなにも長い間、日本語を母語として言語活動を行ってきた人たちが愛してきたのには、文字通りに広くて深い世界があったからにほかなりません。心躍らせる輝きを持った言葉や芯になってくれるような言葉を受け取ってきたのです。
 授業では、「漢文入門」で漢文の基礎的な読み方を確認するところから始め、講読の授業で漢詩文の作品を読み込んでいきます。何といっても中国文学は三千年の歴史がありますから、様々な、つまり、きっと誰かの心に響く言葉と出合えるはずです。
 漢詩文は漢字の壁ではありません。果実がみのり、鳥獣が棲む、豊かな森です。そこには、その時その刻(とき)の思い、感動が詠じ込まれています。この意味で漢詩文は、「感動のタイムカプセル」なのです。一緒にタイムカプセルを開けてみましょう。

研究の魅力

専門は中国古典文学です。個人の研究としては、先秦漢魏晋南北朝、およそ三国志の時代を中心に前後各三百年くらいの詩文を対象にすることが多いです。ここしばらくは、特に中国古典詩文のなかに立ちのぼる匂い・香りの表現を追いかけてきました。
 匂い・香りは目に見えず、言語化しがたいとされますが、中国の詩人たちは匂い・香りと向き合いながらなんとか表現しようとしてきました。それは、三国志の時代、魏の曹操の息子たち(曹丕・曹植)による「芳香の気」の発見や、呉から西晋にかけて活躍した陸機・陸雲兄弟によって試みられた芳りと響き、嗅覚と聴覚が共起する、共感覚的表現となって現れてきます。前者は、今日のわたしたちが「香気」や「?気」として用いている表現につながっているもので、後者は、他の感覚と共起する、共感覚的表現を生み出すことになったようです。いずれも、感覚表現の系譜においても小さくない意味を持つだろうと考えています。さらにのちの時代の詩人たちは、こうしたものを承け継ぎ、取り込みつつ、また自分なりの表現を模索していきます。
 表現が生まれたその場に立ち会い、その営みを追いかけ、読み取って(嗅ぎ取って)いくのは実に面白いものです。 このほか共同の研究として、歴史書の音楽について記された、「楽志」「音楽志」を解読する研究や唐の杜甫詩の訳注にも関わらせてもらってきました。いずれも「用意された答え」のないところに切り込んでいく面白さを味わえる、ぼくにとってかけがえのない場です。

紹介したい一冊『カモメの日の読書』小津夜景

副題として添えられているのは、「漢詩と暮らす」という言葉です。詩人である小津夜景さんは、この言葉の通り、自らの身の回りのことを絡ませながら漢詩を読んでいきます。平淡な筆致や言葉との清々しい距離感は漢詩から学んだもののようです。この本を読むと、漢詩もまた、人のひとつの想いがかたちになったものなのだという、当たり前のことが実感されます。現代日本の詩人がいにしえの漢詩とのやりとりを通して自らの言葉を育んでいくさまは、わたしたちにも言葉との向き合い方を教えてくれます。