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武庫女日文古典部 リレーエッセイ vol.7(2024年11月)
玉藻前はいつから九尾の狐になったのか
寺島 修一
水曜日のカンパネラ「たまものまえ」が玉藻前を歌っていることについて、このエッセイの前稿で説明しました。玉藻前と呼ばれる女性の正体が九尾の狐であることはほとんどの辞書辞典が当然のことのように説明していますが、実はそこには一筋縄ではいかないところがあります。玉藻前の伝承が初めて表れるのは南北朝期の歴史書『神明鏡』で、室町時代には御伽草子『玉藻の草子』や能「殺生石」で知られることになります。ところがこれらの作品で玉藻前は狐ではあっても、「九尾」とは書かれていません。それどころか『玉藻の草子』には、
八万歳を経たる狐有り。長七尺にして尾二つ有り。
とあって、尾は2本であることが明記されているのです。いつから玉藻前は九尾の狐になったのでしょうか。
九尾の狐はもともと玉藻前の伝承よりはるかに古く、中国唐代の類書(百科事典)『藝文類聚』などには「祥瑞」(めでたいしるし)として諸書から九尾の狐に関する記述を引用しています。日本でも平安時代の儀式書『延喜式』に「九尾狐 神獣也」とあります。本来、九尾の狐は吉兆を意味していたのです。
それが凶獣になるのは、中国の幼学書『千字文』の、五代の李暹による注釈書『纂図附音増広古註千字文』が早く、殷の紂王の寵愛を受けた女性、妲己が「九尾狐狸」に変じたという話が載っています。この話は平安時代に日本にもたらされたようで、十二世紀初頭の大江匡房『狐媚記』に、
狐媚の変異は、多く史籍に載せたり。殷の妲己は九尾の狐と為り、
と見えます。妲己は亡国の悪女とされ、紂王をたぶらかして贅沢と残忍を極めたといいます。「酒池肉林」はそのことを表した四字熟語です。ついに妲己は紂王とともに周の武王に殺害され、殷は滅びます。
妲己の物語は中国において増幅されたようです。元代の十四世紀前半の歴史書『全相平話』に含まれる『武王伐紂書』に、九尾の狐が妲己に乗り移るところから太公望呂尚に退治されるまでの物語が描かれます。さらに明代には『春秋列国志伝』『封神演義』といった物語に展開していくことになります。
日本で玉藻前と化した狐は、天竺と中国で悪行をかさねて日本に飛来したと説明されますが、中世の玉藻前伝承において説明される中国での悪行に妲己は出てきません。それが江戸時代になると、妲己の物語を説く上記の中国小説が日本に入ってきて、翻訳した作品も刊行されます。ついに明和3(1766)年刊行の『勧化白狐通』に妲己の物語が組み込まれて、そこでは「金毛九尾の野干」が現れます。そして享和3(1803)年から文化2(1805)年刊の『絵本三国妖婦伝』、同文化2年刊『画本玉藻譚』に至って、天竺から中国を経て日本の玉藻前に至る九尾の狐の物語が完成します。
玉藻前伝承が世に表れてからおおよそ400年、九尾の狐と玉藻前の出会いには長い時間がかけられていたのです。
『画本玉藻譚』(広島大学図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100220237
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