2024.06.25

vol.3 「美」しさとは何か(狩野雄)

maru 古典部リレーエッセイ

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武庫女日文古典部 リレーエッセイ vol.3(2024年6月)
「美」しさとは何か―周瑜「美周郎」像の形成―

狩野かのう ゆう

英雄・豪傑たちの活躍する、歴史小説『三国志演義』(以下「演義」)の世界にも「美しい」とされる人物がいます。代表的な存在として馬超ばちょう呂布りょふ周瑜しゅうゆの3人の名前が挙げられますが、この3人の中でも、「美周郎」の呼び名を持つ呉の周瑜(あざな公瑾こうきん)は別格です。演義(毛宗崗もうそうこう本、17世紀、全120回)の物語に周瑜が初めて登場するのは第15回です。

孫策そんさくが)歴陽れきようまで軍を進めたとき、軍隊がやって来るのが目に入った。その先頭に立つのは、颯爽として垢抜けた姿で、眉目秀麗の人物である。……孫策が誰かと見ると、それは廬江ろこう舒城じょじょう県出身の、姓は周、名は瑜、あざな公瑾であった。(三国志演義 第15回)

ここで演義の著者は周瑜の様子を「姿質風流、儀容秀麗」と描いています。颯爽とした美男子の姿です。演義を下敷きにした京劇のなかで周瑜が美しく装われ、やがて「美周郎」と呼ばれるようになったのも自然なことでした。

しかし、千数百年の時を遡って、周瑜に関する最も旧い記録である歴史書の正史せいし『三国志』(以下「正史」、本文4世紀)の周瑜伝を見てみると、明確に「美」しいとは記されていないことがわかります。

長壮にして姿貌しぼう有り(三国志 周瑜伝)

正史に見える容貌に関する記述は、「背が高く体は大きく丈夫で立派な容姿をしていた」となっていて、「美」や「麗」といった字は使われていません。演義で描かれる姿とは合致しないように見えます。では、どうやって演義以降現代へと続く美男子周瑜のイメージは出来上がったのでしょうか。

このとき鍵になるのは「美」の字です。正史の周瑜伝に見える「立派な容姿」は、実は「美」字のあり方と相性が良いのです。

後漢ごかん許慎きょしんの『説文解字せつもんかいじ』は、「美」字を羊偏に入れて、「うまい」を本義とし、「羊」と「大」の会意文字だとしています。「大」きい(肥えた)「羊」はおいしいというわけです。また、「善」と同じ意味だとも記されています。
字の成り立ちとして「美」が「大」を含んでいることは、「大」なる存在には「美」となる可能性があることを意味します。実際、北宋ほくそうの時代に編まれた類書の『太平御覧たいへいぎょらん』には「美丈夫」の項目があって、身体の大きな男性に関する記述が多く見られ、古代中国の美男子の条件の一つになっていたことが知れます。「長壮」である周瑜はそれだけでも「美」しいことになり得るのです。

また、周瑜の活躍も関係があったと考えられます。「美」字がもともと味覚的な感動を意味し、「善」と意味が重なるということからもうかがえるように、「美」というのは本来様々な感覚と結びつきつつ、内面性と関わって立ち上がってくるものだからです。赤壁の戦いにおいて、少数の軍勢を率いて曹操の圧倒的大軍を退けた活躍は特筆すべき“美事みごと”なものと言えるでしょう。演義の物語では活躍の大部分を孔明(諸葛亮)に取られてしまっていますが、周瑜の輝きは「美周郎」という呼び名に込めるかたちで承け継がれています。

【図版】『三国志演義』の挿絵の周瑜(左)と孫策

(『重刻京本通俗演義按鑑三国志演義』/国立公文書館デジタルアーカイブ)

◇次回は7月下旬公開予定