2024.04.23

vol.1 私たちの感じ方や考え方を問い直す

maru 古典部リレーエッセイ

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武庫女日文古典部 リレーエッセイ vol.1(2024年4月)
私たちの感じ方や考え方を問い直す

村山むらやま太郎たろう

皆さんは、『伊勢物語』の「筒井筒つついづつ」というお話と、『宇治拾遺物語』の「ちごのそら寝」という古文のお話を知っていますか? どちらも、高校1年生で習う古文の定番教材なので何となく覚えているという方がいるかも知れません。

『伊勢物語』の「筒井筒」は、2人の妻を持つ男が、我慢強く自分のことを待ってくれている妻を選び、はしたない姿を見せるようになってきたもう1人の妻を見限る、というお話です。一方で、『宇治拾遺物語』の「児のそら寝」は、僧たちの作るぼた餅を食べたいのに我慢して、寝たふりを続けたけれども結局うまくいかなかった児のお話です。実はこの2つのお話は、同じ考え方が重要なポイントになっているお話なのです。

具体的にその考え方が見えるのは、それぞれ次の場面です。

初めこそ心にくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙いいがい取りて笥子けこのうつはものにもりけるを見て、心憂がりていかずなりけり。(『伊勢物語』「筒井筒」)

ださんを待ちて寝ざらんも、わろかりなんと思ひて、片方に寄りて、寝たるよしにて、……。(『宇治拾遺物語』「児のそら寝」)

「筒井筒」の方は、自らしゃもじを手にしてご飯をよそう妻の姿を目にして、男ががっかりする場面。それに対して「児のそら寝」の方は、児がぼた餅の出来上がりを待って寝ないのもみっともないだろうと、寝たふりに至る場面です。この2つの場面に共通する考え方があります。もう分かりましたよね? 

2つの場面に見える考え方とは、食べたいという本能を人前で言動に現してしまうのは野蛮でダメだよね、という考え方です。基本的に多くの古文はこの考え方を共有しており、食欲にあらがえずに優雅さを忘れてしまった人を厳しく批判します。例えば、『今昔物語集』という仏教説話集に、もの悲しい鹿の鳴き声を聞いて「鹿肉はカリッと焼いても、レアでも美味しいわ」と言った妻が、がっかりした夫によって実家に送り返されるというお話があります(「巻第30第12」)。鹿の鳴き声は高音で抑揚があります。そのため、和歌では異性を恋い慕う声とされ定番なのです。鹿の鳴き声を聞いて優雅な和歌のひとつもまず、食欲むき出しとは!というわけです。

このように、〈食欲<優雅さ〉は様々な古文によって手を変え品を変え語られてきました。私たちの中にも、がっついて食べる人を見るのは不快だな、という感じ方があるなら、それは古文から引き継いだものと考えてよいでしょう。

私たちが誰かの言動を見て反射的に不快に思うことは沢山あります。食欲むき出しの食べ方への嫌悪感もそのひとつです。そんな私たちの感性にまで染みついた考え方の生まれ方や作られ方を古文は伝えてもくれますし、同時に私たちの感性がごく自然なものではないことに気づかされもします。これは感性の相対化といえる経験で、この経験は今を生きる私たちにとって本当に必要な感じ方や考え方を新しく生み出す大事な足場になります。皆さんの古文を読むという学びがそうした経験になることを願っています。

【図版】器の大きさが強調されている?

伊勢物語図版

(「筒井筒」/『伊勢物語註絵入』国立公文書館デジタルアーカイブ)

◇次回は5月下旬公開予定